2002.07.17記
偶 像 崇 拝
〜  神像 ・ 仏像のお参りの仕方  〜
  今回は 「偶像崇拝」 をテーマに、密教を勉強してみましょう。
 
   私たちは、神社やお寺に詣でた時、そこのご神体や、本尊である
 仏像の前に立ちます。
   この時、人々は何を思いながら神さまや仏さまに手を合わせるの
 でしょうか? 
   自分の犯した罪を消していただくため、身近に亡くなられた方のた
 めの供養、家族や自分の病気回復のため、子供や孫の成長のため、
 仕事の発展のためなどなど、さまざまな願い、またその願いの成就の
 御礼のために、あるいは行者などは神仏のパワーを得るため、また
 何か分からないが、心が求めるままにであったり、と人々は神さまや
 仏さまを求め、手を合わせていることが多いのではないのでしょうか?
 
   実際は、こればかりで手を合わせ祈りを捧げているとは思いませんが、 しかしほとんどの方は、何がし
 かの願いがあってのことだろうと思います。
   そこのご神体や仏像は、石そのものであったり、木で彫られた神さま仏さまであったりします。このよう
 な 「物」 で作られたものを、神仏として拝み、祈りを捧げることが 「偶像崇拝」 と云われます。
 
                     一つの神を絶対視し奉ずる宗教観を持った人々は、「偶像崇拝」を蔑視
                    します。彼らの主張は、 『 絶対的な神は 「○○」 であって、そのような物
                    ではない! そのような仮の姿の物を崇拝するとは何ごとか! 』 と、云った
                    ようなものです。
                     ご存知のように、アフガニスタンの仏教遺跡バーミヤン石窟も、過激な人
                    物たちによって破壊された一例です。
                     「偶像崇拝」 は、彼らの主張のように本当に軽蔑されるようなものなので
                    しょうか? 「偶像」 は本当に偶像なのでしょうか? また、彼らとは別の考え
                    方で、 『 神は自分の中にいるのであって、外にはいない! なのになぜ、偶
                    像を崇拝するのか! 』 との主張もあります。
                      しかし、彼らの 「偶像崇拝」 に対する考え方は、半分は正しくて、半分は
                    間違いであります。

                      先ず基本的に、神に対する考え方には、先ほども述べたように二つの対
                    照的な考え方があります。
   @ 神は、私たちの生活を保障し、私たちを絶対なる安らかな世界に導いて下さる存在である。
     だから、他のどのような神にも目を向けず、ただこの神を一心に信じ崇拝すれば良いのである。
   A 私自身の内なるものに神は居られるのであって、私自身が神である。
     他のどのようなところにも神は居ないのである。

   この二つの立場の観点から 「偶像崇拝」 を見てみると、確かに彼らの主張は正しいと思います。彼らの
 考え方であれば、偶像はやはり偶像でしかありません。だから、彼らは彼らのやり方で神さまや仏さまを信
 仰すれば良いのに、他のやり方を批判します。
   批判するだけならまだ可愛いところがあるのですが、自分のやり方を強要してくる人たちもいます。
   ひどいのになると、打ち壊しに来るものもいます。日本でも、先祖の位牌を焼いてしまうと云う、過激なこ
 とをやっていた教団がありました。

   それでは、密教的には 「偶像崇拝」 をどう捉えているのか?
   先ずその前に、空海上人が唐より請来した 「密教」 のイメージに
  ついてお話ししましょう。
   「仏教」 が長い年月を掛けて発展をして来た結果、出来上がった
  カタチが 「密教」 です。 ご存知のように 「仏教」 は、 お釈迦さまが
  開祖です。お釈迦さまの滅後、仏教教団は開祖である、お釈迦さま
  をご本尊として信仰の対象としていました。
   しかし、 「真言密教」 はご本尊が 「大日如来」 となっています。
 「大日如来」 とは 「宇宙の意識」 そのものです。それは 「神」 と呼べ
 るかもしれません。 
   それは 「密教」 が、 「仏教」 でありながら、それとは少しかけ離れ
 たものになったと云うことを意味します。 「仏教」 はその発展の中で、
  「お釈迦さまのように、誰でも同じように仏陀(目覚めた人)に成る」 と云う方法に、ある意味、限界があり
 ました。そこで、バラモン教やヒンドゥー教、また他の宗教の優れた思想や修行法を取り入れてきました。
 そうやって発展してきたものが 「密教」 と呼ばれるものになっていったのです。
 
   ですから 「密教」 と云うものはその修行法が、直接的に霊的世界に入っていくものなのです。つまり、こ
 の身、生きたままで「神と呼ばれる存在」 = 「宇宙意識」 を、この身の上に顕現するようになれるのです。
 自分自身が、この「大宇宙」をグッと収縮した「小さな宇宙」であることをハッキリと悟るのです。
   「密教」 には、たくさんの神々や仏・菩薩が居られます。
   それは、宇宙にはたくさんのエネルギーがあって、それらを神や仏・菩薩の形として表したのです。です
 から、その一つ一つが宇宙の一部と考えて、全てを肯定していきます。その神々や仏・菩薩を一つでも否
 定することは、宇宙を否定することであり、自分自身を否定することでもあります。

                       「密教」 で説かれる 「宇宙観」 を、宗教家が読解すると何やらチンプン
                     カンプンなのですが、物理学を専攻された方がこれを読むと、 『 宇宙につ
                     いて、すごく分かりやすく説いている。 』 と驚かれます。
                      これは面白いことだと思いませんか? 「密教」 を宗教的観点から理解
                     しようすると、何のことを云ってるのか、さっぱり分からないのですが、現
                     代の物理学を学んだ人が、物理の観点で 「密教」 を理解すると、もの凄く
                     分かりやすいようなのです。

                      さて、それでは 「密教」 は 「偶像崇拝」 をどう捉えているのか?
                      当然、肯定をしています。密教的な考え方をするならば、仏像に見られ
                     る如来や菩薩の姿かたちは、私たちの中に内在する、 私自身の 「魂」 の
                     完成された姿であり、私たちが 「密教」 の修行により目指すべき 「モデル」
                     なのです。
                      つまり、仏像を見上げる時、それは自分自身の 「魂」 を、 「宇宙意識」
                     をその仏像に見出しているのです。
 
                      「密教」では神像や仏像を拝むと云うことは、私たちを生かし育んで下さ
 る 「宇宙の意識 = 大生命」 と、それに連なる自分自身の中に居られる神(自分自身)を認識し、礼拝をし
 ているのです。
   あなたが、目の前にある仏像を 「偶像」 として見て行けば、やはりそれは「偶像」でしかありません。
   しかし、あなたがその仏像 の中に 「神」 を見出す心があれば、それはもう 「偶像」 ではなく、 「神」 その
 ものとなるのです。
 
   もし、あなたが自分自身のことを卑下し、自分をつまらぬ人間だと本
 気で思っているならば、それは、自分ほど偉い人間はいない、と本気で
 思っていることと大差はないのです。
   つまらぬ人間も、偉い人間も、本当は誰一人としていないのです。
 本当のあなたは「魂」なのです。どのような人がやって来ようとも、誰も、
 「魂」 = あなたを壊すことも傷付けることも出来ません。
   そして「魂」 = あなたは、どのような困難なことでも、道を切り開いて
 いく思わぬ力を秘めています。
   このような 「魂」 こそが本当のあなたなのです。
   この本当の自分自身と出会うことを、「密教」は教え、実践をして行き
 ます。
   あなたも、神像や仏像の前に立ったならば、ご利益を願うことも悪くは
 ないですが、それと同時に自分自身の本当の姿 = 「魂」 を、その神像や仏像に見出せるようなお参りを
 されてはいかがでしょうか。

  
                                 偶像崇拝 〜神像・仏像のお参りの仕方 〜  終わり 
御えな塚
(空海上人の臍の緒)
延命龍觀音・善通寺
大日如来を中心とした
密教の宇宙観
岩山そのものが本尊
不動明王と云われる
第45番岩屋寺
空海上人像・別格神野寺