大 日 如 来(2)
(だいにちにょらい)
2003.03.21記
〜 五智如来 − 阿しゅく如来仏 〜
仏教の開祖は、皆さんもご存知の「お釈迦さま」です。
正式名を「ゴータマ・シッダ−ルタ」と云います。彼は29歳で出家を
し、35歳で真理を悟られた(大悟成道)と云われています。そして彼
の語る言葉が、多くの人々の心に共鳴していったのです。
こうして仏教が生まれ、東へ東へと流伝されていき、私たちもこの日
本で学ぶことが出来ました。
仏教は本来、偶像崇拝の形ではありませんでした。なぜなら「お釈
迦さま」は最後の説法で、このように仰られたと伝えられています。
『 なんじらは、今も、また私の死後も、私や他人を拠りどころとはせ
ず、ただ「自ら」を燈明とし、「自ら」を拠りどころとしなさい。また、他の
ものを拠りどころとせず、「宇宙の法則」を燈明とし、「宇宙の法則」を
拠りどころとしなさい。』
仏教ではこの説法を、「自燈明、法燈明」の垂訓と呼んでいます。最も重要な、また最も基本的な説法
の一つとして尊重されているのです。
この「宇宙の法則」こそが、密教では「大日如来」とお呼びしているものなのです。「大日如来」とは、私
たちがイメージしている姿かたちや人格と云ったものは一切ありません。あなたが今、目にしている全て
ものが「大日如来」なのです。
空も大地も、風も、水も火も、また、草も木も、パソコンだってそうだし、本やペンさえも・・・森羅万象、
全てのものが「大日如来」の表れのお姿であり、人格であり、声なのです。
それは、そのときそのときで必要なお姿に変わり、人格を変え、声を変えるのです。ですから仏像は、
「大日如来」の働きを象徴したお姿であって、そのような姿かたちでおられるのではないと云うことです。
この「宇宙の法則」そのものを仏教では、「法身」(ほっしん)と云いま
す。
そしてこの「法身」と云うものは、これであると云ったものではなく捉え
ようのないものですので、四つの種類に分けてみました。つまり、四つ
の性格に分けたと考えて下さい。
「大日如来」を中心に、
「阿しゅく如来」(あしゅく にょらい)
「宝生如来」(ほうしょう にょらい)
「阿弥陀如来」(あみだ にょらい)
「不空成就如来」(ふくうじょうじゅ にょらい)
と、四つの如来に変化します。おそらくこの四仏の中で、皆さんに馴染
みのある仏さまは「阿弥陀如来」だけではないでしょうか?
「大日如来」を中心に、四つの如来を合わせたこれらを、「金剛界五
仏」(こんごうかい ごぶつ)、あるいは「五智如来」(ごちにょらい)と云う風に呼んでいます。
それでは、まず「阿しゅく如来」から見ていきましょう。
この仏さまは、体の色は青黒く、憤怒のお顔で「魔」を降します。右手を右膝から下に垂れ、人差指を
大地に触れておられるのが特徴です。これを「降魔印」(ごうまいん)、または「触地印」(そくちいん)と云
い、どのような誘惑にも心揺るがさず「不動心」であることの表れ、またそれらに打ち勝つことを意味しま
す。
この「降魔印」で有名なお話しがあります。それは「お釈迦さま」が悟りを開かれるとき、悪魔が誘惑して
惑わそうとしたときのお話しです。
悪魔は、「お釈迦さま」 の心が揺らぎそうなことを一所懸命に語りかけてきました。それは出家をしたと
きに、親や奥さん、子供を捨ててきたことでした。しかし「お釈迦さま」は、大地に指を触れ強い「不動心」
で以って魔を降しました。
さてこの仏さまは、このように誓願をされました。
『 私は今より、この上ない仏道を修めようと思う心を起こし、瞋恚(し
んに)を断ち、淫欲を断ち、また、この上ない悟りを得ます。』
このように、「無瞋恚の願」の誓いをたてられたのです。
「瞋恚」 とは、「自分の心に逆らうものを怒り、うらむこと」
を云いま
す。つまり「無瞋恚」とは、決して怒らないと云うことです。
ですから、腹が立って、腹が立って仕方がないときは、この仏さまに
祈りを捧げると良いでしょう。
また「阿しゅく」とは、「動ずることがない」と云う意味でもあります。
私たちが、人生を豊かに幸福にするためには、「絶対に揺るがない
心」をつくることが大切です。
しかし誰しも人は、他の人の言動に対してや、何か困った問題など
が起きると必ず心が動揺します。神経過敏の人は絶え間なく、いつも
いつもほんとに些細なことでも心が揺れています。心が安らぐことな
く、恐怖や不安、怒り、苦悩などで日々を過す、いわゆる生き地獄で
す。
ですから自分の人生を、暗く不幸な人生にしようと思ったならば、ま
ず何かを心配し続ければいいのです。何かに怒りを持ち続ければい
いのです。
しかし自分の人生のみならず、周りの人々をも幸せにしようと思ったならば、自分の「心」と云うものを
絶対的に揺るぎのないものにするのは必修です。基本中の基本であり、すべてはここから始まるといっ
ても過言ではありません。
この揺るぎのない心は、波ひとつ立たない湖の水面に例えられます。ですから、「阿しゅく如来」の持た
れる智慧を「大円鏡智」(だいえん きょうち)と云います。
私たちの心が、怒ったり、悲しんだり、苦悩したりしている「心」と云うものは、湖の水面が波紋を起こし
て揺れて揺れてどうしようもない状態と同じです。逆に波ひとつ立たないで、シーンと鎮まりかえっている
水面の状態は、心静寂にして不動の境地と同じ状態です。
湖などの水面が揺れず静まり返っているときは、その周りの風景はそのま
ま映し出されています。きれいにハッキリと映し出されていますから、何があ
るのか簡単に見ることが出来ます。
ところが、風が吹いて水面が揺れているときには、そこに写し出されている
周りの風景はゆがんでハッキリ見ることが出来ません。強風が吹いてもっと
揺れているときには、もう何がなんだか分かったもんじゃありません。何かが
見えているんだけど、グチャグチャでさっぱり分かりません。
私たちの心の状態もこれと同じです。雑念とか、妄念とか云ったもので、落
ち着かないグチャグチャした心の状態では、ハッキリと物ごとを見ることが出
来ません。
例えば、他の人の言葉も素直に聞くことも出来ず、ゆがんで受け取るため
に誤解を生じ、ますますゆがんでいきます。また、自分の人生の上で起こった
困難に対しても、恐怖、不安、苦悩、怒りで以て見ていますから、どうやったら
この困難を克服できるのかも分からないで右往左往しています。
心を波立たせずに静かにしておれば、どうやればこの困難を克服できるか
は、自ずと分かってきます。いわゆる「インスピレーション」=「直感」が出てき
ます。水が全てを映し出すように、「智慧」が自分の心の中に映し出されてくる
のです。
しかし、この「直感」と「思い込み」を混同している人がおられます。「直感」と「思い込み」は全く違いま
す。
「直感」は、「宇宙意識」と同調したときに閃いて来るものです。
「思い込み」は、自分のエゴを満足させるための妄想です。
この二つのどちらで人生を歩むのか? これは大きな選択です。「直感」に従えば、自分や他の人の
人生の幸福を得ることが出来ますが、「思い込み」に従えば苦悩多き人生を歩むことになります。
私たちは「阿しゅく如来」の智慧である、一切のものを映し出す水のような、あるいは鏡のような「大円
鏡智」で以って、自分の人生を幸福なものにしなくてはなりません。それは個人、個人に課せられた責任
なのです。
また「阿しゅく如来」は憤怒の相をしていると前述しましたが、その怒りは私たちがふくれっ面で怒るのと
は訳が違います。それは私たち自身の中にある、「無智なる心」に対して厳しく律しているのです。
「無智なる心」とは、雑念、妄念が多くその心に支配され、そこからろくでもないことを考え言動すること
です。これが人を不幸にしてしまう元凶であり、「魔」なのです。
この「魔」に打ち勝つためにも、私たちは「大円鏡智」の智慧で以って心を静寂に、不動心を培うことを
獲得するのです。
また「阿しゅく如来」には、「大円鏡智」の智慧以外に他にもいろいろ
と意味するものがあります。
「大日如来」を中心に五つの如来の存在は、この宇宙が基本的に
は五つのエネルギーで全て分けられていることを意味しています。
では、「阿しゅく如来」の表すエネルギーを少し見てみましょう。
◎ 五仏 − 「金剛部」
◎ 智慧 − 「大円鏡智」
◎ 色 − 「青」
◎ 方角 − 「東」
◎ 元素 − 「水」
◎ 煩悩 − 「瞋恚」
と、云うように意味します。ここ数年、流行の風水なんかもこの宇宙の五つのエネルギーからつくられて
いるのです。
それでは次回、「宝生如来」についてお話ししましょう。
大日如来(2) 〜 五智如来
− 阿しゅく如来仏 〜 終わり
 |
第42番
仏木寺ご本尊 |
 |
花咲く姿も大日如来の化身
(あんずの木) |
 |
阿しゅく如来
別尊雑記の像より |
 |
涅槃仏
タイの寺院にて |
 |
仏足
第46番・浄瑠璃寺 |